大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡高等裁判所 昭和34年(う)1044号 判決

被告人 宮川一郎

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役八月に処する。

但し二年間右の刑の執行を猶予する。

殺人の公訴事実につき被告人は無罪。

理由

弁護人免出砿の控訴趣意第一、一、及び弁護人石坂繁、同本田正敏の控訴趣意第一について。

所論は、畢竟宮川公代は自殺したものであつて、被告人が自ら手を下して殺害したものではないと主張する。

先ず、医師八田千之作成の死体検案書及び鑑定人世良完介作成の鑑定書によれば、宮川公代の死体にはその前頸部正中喉頭結節部下方に縦に並んで二個(第一、第二)、そのすぐ左右両側に縦に並んで二個宛(左側が第三、第四右側が第五、第六、)合計六個の各刺創が存した事実を認め得べく、また司法警察員作成の昭和二八年五月二六日附実況見分調書、原審並びに当審における各検証調書によれば、本件凶行が行われたという被告人の居室は六畳でその西側に箪笥があり西北隅近くに出入口が設けられて、同室の西側は壁を隔てて一・三米巾の台所となり、更にその西側は壁を境として被告人の姉宮川貴美子の居室である四畳半の部屋となり、同室の北側(前面)は四畳半の茶の間となつて当時その北隅に洋服箪笥が置いてあり、又被告人の右居室の北側(前面)は応接間にして又貴美子の部屋の西側は事務室となつており被告人の居室六畳の入口より、茶の間に在つた洋服箪笥までの距離は約四米であることが認められる。そこで、宮川公代が六畳の居室において自殺を企てた当時在宅しその直後同室内の状況を目撃した者は、最初に公代の実母馬場ツル、次に被告人、その次に被告人の実姉宮川貴美子の順であるから、当時の模様に関する同女等の証言を検討する。

原審証人馬場ツルは第五、第六回公判において次の如く証言している。

『昭和二八年五月一二日夜被告人が自己の六畳の居間で「何の不服があつてこんな物を買つたか、俺の目の前でこれを飲め、飲まんのなら黒髪に帰れ」と言つて、アドルムを買つたことで公代を叱り、手で公代の顔を打つたり、たばこ鑵を投げつけたりした。そのうち公代の息づかいがひどくなつたので、私は可哀相になり公代の所に近寄つて私も一緒に泣き出したところ、被告人は怒つて「お前が出ないなら俺が出て行く」と言つて茶の間の方に出て行つた。それで二人になつてから私が公代に「考え違をしてはいかんよ」と言い聞かせたところ、公代は「はいはい」と返事した。それから被告人が引き返して来て入口の処で「今から出て行くから仕度せよ」と言つたので、私は立ち上つて「今夜のところは許して下さい」と言つてとめたが、被告人は黙つて又茶の間に出て行つたので、私はその後を追つて茶の間に行つたが、被告人は洋服箪笥の前に立つてネクタイか何かを結んでいたようである。それで、私はその右側に被告人の方を向いて立ち「今夜は出かけないで下さい」と言つて頼んだが、被告人は何とも返事しなかつた。それから、私は公代のことが心配になつたので居間の方に引き返し居間の入口の処に来たら、入口の畳の上に一銭銅貨大の血が三滴落ちていた。それを見て私は又公代が鼻血を出したと思い、「又鼻血ね」と言い乍ら箪笥の北角辺りの入口に近い処に入口の方を向いて立つていた公代に一歩近寄り(一尺位の距離までに)顔を見たが、鼻の下辺りには血がついていなかつたので、何処から血が出たろうかと思つて辺りをよく見廻していたら、咽喉のブラウスの合目近くの所に傷が一個あり、ブラウスの襟にも血がついていた。それで私は驚いて「アー」と声を出し、続いて「姉さん」と大声で呼びに走つて貴美子の部屋の入口まで迎えに行つた。なお私が貴美子を呼びに行く時被告人は私の後方に来ていたらしく、私が公代の部屋にいたとき私の方を見ていた公代の視線が私の右後方高めに移つた。公代は立つて両肘を曲げ帯の高さ位の処で両掌を上向にしておりそれが、左右に震えていたが公代は何も持つていなかつた。口は少し開けていたと思う。眼は開いており唯瞬をしないのが変つていたが、私の方を一寸見ただけでそれから私の右後方高めに視線を移した時は被告人に甘えたい様な目付であつた。私は公代がナイフか何かで咽喉を突いたものと思い、居間を出て茶の間に行き貴美子の部屋の入口で足踏みをし乍ら貴美子を呼び、それから応接間を通り内玄関を経て中庭に出て通用門から道路に出た。私が貴美子を呼びに居間に出るまで公代は私が初に見た儘の姿勢で立つていた。私が被告人の後を追い茶の間に行き再び居間に引き返すまでの時間は三〇秒位であつた。私が外に出てわあわあ声をあげて泣き乍らうろうろしている時、内田が自転車で帰つて来るのと会つた。それから西郷病院に電話をかけようと思い内玄関から這入り応接間を通る時、通りすがりに居間の方を見たら被告人は居間の中央辺りに箪笥の方を向いてあぐらし、公代の頭を左腕にのせて抱いていた。私が事務室で電話しようとして受話器を外して「西郷さん、西郷さん」と呼んだが電話が通じないで困つていると、居間から被告人が「西郷さんは電話帳のサの字の処を見れば判る」と言つたが、それから被告人が公代を抱いて貴美子の部屋にやつて来た。』と。

そこで、記録を精査し馬場ツルの証言を仔細に検討すれば、同証人が故ら虚偽の証言をしているものとは到底考えられない。従つて、若し仮りに同女の当時の状況観察に誤がないとすれば、就中公代の前頸部に在つた傷の数に見誤がなくて当時傷は一個に過ぎなかつたという点と、ツルが六畳の居室に入つて公代の前に立つていた時被告人が既にツルの後方に来ていたという点の証言がいずれも事実に符合するものとすれば、そしてまた、公代の前頸部に在つた左側の第三、第四刺創と右側の第五、第六刺創はいずれも自為的には形成し得ないという古畑種基及び世良完介の各鑑定が採用に値するものとすれば、原判示のとおり公代の前示四個の刺創は被告人がこれを与え以て同女を殺害したものと断ぜられないこともない。しかしまた、公代が自ら前頸部を突き刺して自殺を企てていたことは動かし得ない事実であり、他方馬場ツルの前記証言と右各鑑定を除外すれば、被告人が公代の前頸部を突き刺してこれを殺害した事実を肯認すべき直接の証拠がないのは勿論、間接の証拠すら存在しないことに留意しなければならない。

それでは、馬場ツルの証言就中前記二点に関する証言が果して真相に合致するものとして全面的に信用できるものであろうか。この点に関する被告人の供述は暫く措いて宮川貴美子の証言を検討するに、同女は原審第六回公判において当時の模様につき次の如く証言している。

『五月一二日夜私が自分の四畳半の部屋で本を読んでいると、被告人の居間の方で被告人が「アドルムを買つてどうとか」と言つて公代を叱つている声が続き、殴る音や物を投げる音が一、二回宛聞えていた。それから被告人は「黒髪に帰れ、帰らんなら俺が京子を連れて東京に出て行く」と言つて茶の間の洋服箪笥の方にやつて来て、「公代ズボンがどうか」と言つた。ところが公代の返事がなかつたので、被告人は居間に引き返し「何か、返事もしないのか」と言つていた。それに対し公代は「気づきませんでした」とか言つていた。それから被告人は又茶の間にやつて来た。その時ツルが被告人に数歩遅れて殆んどその後を追う様にして茶の間にやつて来て、「御心配かけて済みませんが、今日は遅いから出ないで下さい」と被告人に言つていた。それに対し被告人は「いいえ、お母さん、よかです」と言つていた。それからツルは居間に引き返した。その時私が私の前の壁にかかつている鏡をのぞき込んだら、被告人は洋服箪笥を開け洋服をいじり乍ら思案している姿が映つていた。それを見て私は一寸本に目を移していたら居間の方で「アー」というツルの声が聞え、それに続いて「誰か来て下さい」という声が聞えたので私は何事だろうと思つて声がした方を見た時、ツルは「姉さん」と呼び乍ら応接間から茶の間に一、二歩入つて来たので、ツルの姿を見て私はすぐ立ち上つた。その頃被告人はツルとすれ違つた様にして茶の間を出て居間の方に行つた。そして私が部屋を出て茶の間の台所の前辺りまで来た時、ツルは向き直つて内玄関の方に行こうとしており、私が応接間に出た時は内玄関の出入口辺りに行つていた。私が茶の間の台所の前辺りを行く時被告人が「姉さん、姉さん」と呼んでいたので、居間の入口に行き居間の中を見た時に、箪笥の前に血痕がちらつと見えたが私はすぐ被告人の方を見た。その時被告人は箪笥の入口に近い角の北側壁に近い処に南東向きに中屈みになつて公代の左後方から右手で公代の右腕を、左手で公代の右膝を上方から抱いており、公代の身体は上向きになり足は少し曲げて投げ出してあつた。私が初め見た時は被告人の身体で公代の顔はかくされ頭だけが見えていたが、私が来たのに気付いた被告人が左手をずらして上体を左方に捩じ曲げ、私に「姉さん、医者を医者を、田上さんを呼んで、田上さんを」と言つた時に公代の顔が見えた。その時の公代の顔は口の廻りに少し血がついており、両眼は物凄くうつろに見開いて気絶しているかの様に瞼も眼球も動かず、それを見て私は意識を失つていると感じた。初めに公代の顔が見え次いで公代の眼を見、次に口を見て驚いて医者を呼びに走り出したので、咽喉の辺りに傷があるかどうか気づかなかつた。それで私は医者を呼びに行こうとして茶の間を通り私の部屋を経て事務所の電話器の側まで行つた時、居間から被告人が「小川さんでよい、小川さんでよい」と大声で言つたので、走る速度を緩め乍ら聞き取り「判つた、判つた」と返事をして再び走り出し、岡本方に走つて行き玄関口の辺りで岡本に会い、私は「公代さんが目を見開いた儘意識を失つている、小川先生を呼びに行つて下さい」と頼み岡本と一緒に小川先生方に行つた。』と。

そして、右証言は司法警察員作成の昭和二八年五月二六日附実況見聞調書における立会人としての宮川貴美子の説明と全く同旨であり、更に同女の司法警察員及び検察官に対する各供述調書が原審公判において取調を請求されていないことよりすれば、同女の供述は警察、検察庁の取調及び原審公判を通じ終始一貫して変らないことが推知されるのみならず、記録を精査し同女の証言を仔細に検討すれば、同女は被告人の実姉ではあるが、被告人に利益な点も不利益な点もすべて包み隠さずありの儘に述べていて、同女が当時の模様につき被告人の利益になるよう故ら虚偽の証言をしているものとは到底考えられない。しかも、同女は八代市の旧制白百合高等女学校を卒業した二五才(当時)のしつかりした者であつて、当夜馬場ツルを含めた被告人と宮川公代の紛争の圏外に立ち、冷静な気持を以て自己の部屋で本を見乍ら右紛争を傍観していた者である点と、同女の証言が微に入り細に亘つて当時の模様を如実に物語つている点に徴すれば、その証言中事の真相に副わないような状況観察の誤があるとはたやすく考えられない。これに反し、馬場ツルは同女が原審第五回公判において自認する如く性来慌て者であるのみならず、当夜は被告人が公代を叱責殴打するのを見て極度に心痛し精神的にひどく動揺してそわそわしていたことが窺われるから、当時の状況観察に誤なきを保し難く、更に公代の前頸部にある傷を見てからは気も顛倒せんばかりに驚き慌て半狂乱の態となりその言動が全く常軌を逸していたことは原審証人内田乾爾の証言と吉村覚の検察官に対する供述調書によつて明らかであるから、これがために同女の記憶が歪められていないものとは言いきれない。現に、前記各証言によれば、宮川貴美子はツルが居間に引き返し「アー」という声が聞え、続いて「誰か来て下さい」と言い、更に「姉さん」と呼び乍ら茶の間に入つて来た頃、被告人はツルとすれ違つた様にして茶の間を出て居間の方に行つたと証言しているのに対し、馬場ツルは居室の入口から公代に一歩近寄り公代の咽喉に傷があるのを見た時被告人は既に私の後方に来ていたようであると異る証言をしているが、元来ツルが茶の間から六畳の居室に引き返したのは異様な物音を聞いたためではなくして、只何となく公代のことが心配になつた為であるから、その時まで「出て行く」と言つて洋服箪笥の前で洋服をいじつて外出の用意をしていた被告人が、何事もないのにすぐツルの後を追つて居室に引き返すことは筋の通らぬところであつて、宮川貴美子の証言するごとく、被告人はツルが「アー」と悲鳴を発し「誰か来て下さい」と言う声を聞いて、初めて洋服箪笥の前を離れて六畳の居室に向い、ツルとは茶の間附近ですれ違つて行つたものと断ずるのが真相に合致するものというべく、この点において既に馬場ツルの証言は誤を犯していることが看取される。

次に、その頃外出先から帰つて来た被告人方夜警人の内田乾爾は原審四回公判において次のように証言している。

『五月一二日午後九時過頃被告人方近くまで帰つて来たところ、被告人方から悲鳴が聞えたので走つて勝手口に来ると丁度そこに馬場ツルが勝手口から飛び出して来た。ツルは悲鳴を挙げ乍ら飛び出して来て私に出会うと立ちどまつた。見れば素足で手足を動かして半狂乱の態で足ぶみする恰好で手先をチーチーパツパの踊り見たいに振つて何か声を出していた。「早うお医者を呼んで来てくれ」とか、「公代がのどを突いている」とか、「死による」とか、何か系統立たないことをのべつまくなしに言つていた。ツルがそんなことを言うのを聞いていた時間は一〇秒位の間であつた。私は大変なことが起つたと思い自分の部屋に行つたが、ツルは正面玄関辺りまで私について来て引き返した。私は自分の部屋の前で本を部屋の中に投げ込み物置に行つて自転車を出して廊下に置いた時、事務室内で人が電話にかかつているのが見え、被告人の声で「西郷病院の電話はサの字の所を見なさい」と言うのが聞えたから、私が電話の所まで行つたらその時被告人が貴美子の部屋に公代を抱いて坐つているのが見えた。被告人は白シヤツを着ていたが、その左胸附近は分量が判らないが広く一面に染んで塗抹状になつており、右の方はそれと対照的に真白であつた。公代の顔面は蒼白で表情の動きはなく、目は白眼だけ大きく見開いて口は閉まらず中位にあけて力が抜けた恰好でたらりとして仮死状態の様であつた。傷口は目につかなかつたが、着衣に対する血の染り具合から相当量の出血のあつたことは認められた。それに左首のところに血の流れた跡が見受けられた。被告人は気がかりであせつていて言葉が出ないという風に、度を失つた程度にあわてていた様である。私は二〇秒位それを見て自転車で岡本方に行つた。」と。

そして記録を精査しても該証言の信用性を疑うべき事情は見出し難い。

そこで、最も措信するに足る前記宮川貴美子の証言に、前掲馬場ツル及び内田乾爾の各証言を参酌すれば、次の事実が認められる。

昭和二八年五月一二日午後九時過頃被告人は自宅六畳の自分の居室において、妻公代が睡眠剤アドルム四箱を所持していたことについて同女を詰問し、「なんの不服があつてこんな物を買つたか」、「俺の目の前で薬を飲んで見ろ」、「飲まないのなら黒髪に帰れ」と言つて叱責し、公代の頬を手で数回殴打し更にたばこケースを投げつけた上、「お前が出ないなら俺が出て行く」と言い捨てて茶の間の方に行つたが、すぐ引き返して右居室入口で「公代ズボンが何とか」と言つて再び茶の間に行き洋服箪笥を開いて思案顔して洋服をいじつていたのである。一方、馬場ツルは被告人が最初居室を出て茶の間に行つた後、公代に対し「考え違をしてはいかんよ」と言い聞かせ、引き返して来た被告人に対して「今夜のところは許して下さい」と言つて詫びたが、被告人は黙つて再び茶の間の方に行つたので、すぐその後を追つて行き洋服箪笥の前で洋服に触つていた被告人の側に寄つて「心配かけて済みませんが、今日は遅いから出ないで下さい」と言い、被告人は「いいえ、お母さん、よかです」と返答したのである。ところが、ツルは六畳の居室に一人で残つていた公代のことが心配になつたのですぐ引き返し居室入口まで来た際、入口の畳の上に一銭銅貨大の血が三滴落ちているのに気づいて公代が鼻血を出したと思い、「又鼻血ね」と言い乍ら箪笥の入口に近い北角辺りの入口の方を向いて立つている公代を見たのである。公代は両肘を曲げ帯の高さ位の所で両掌を上向にしてそれが左右に震えており、目を見開いて瞬をしなかつたのである。そこで、ツルが公代に近寄つて見ると咽喉のブラウスの合目近くに傷があり、ブラウスの襟にも血がついているのを認めたので、公代がナイフで咽喉を突いたものと思い気も顛倒せんばかりに驚いて「アー」と悲鳴を発し、続いて「誰か来て下さい」と叫んで居室を出て「姉さん」と呼び乍ら茶の間に入つて貴美子の部屋の入口附近に来たのである。また一方、被告人は洋服箪笥の前に立つていたが、居室に方りツルの「アー」という悲鳴に続いて「誰か来て下さい」という声を聞いて足早に居室に向う際その茶の間辺りで貴美子を呼びに来ていたツルとすれ違つて居室に行つたのである。また宮川貴美子は自分の四畳半の部屋で本を読み乍ら被告人等の紛争を聞いていたが、ツルが「アー」、「誰か来て下さい」と叫び続いて「姉さん」と言つて呼びに来たので、すぐ立ち上つて部屋を出て六畳の居室に向つたが(その頃ツルは内玄関の出入口辺りに行つていた)、台所の前辺りに来た時被告人が「姉さん、姉さん」と呼ぶ声を聞き、居室の入口に行つて中を見た際、箪笥の前に血痕があり、被告人が箪笥の入口に近い北角辺りに南東向きに中屈みになつて公代を後方から抱きかかえていたのである。そして、被告人は貴美子の姿を見るや否や「姉さん医者を、医者を、田上さんを呼んで、田上さんを」と叫び、その時貴美子が公代の顔を見ると、口の周りに血がついて両眼を物凄くうつろに見開き、気絶しているかのように瞼も眼球もすわつて動かなかつたので、貴美子は驚いて医者を呼びに走り出し事務室を通る時、被告人が更に「小川さんでよい、小川さんでよい」と大声で叫んだのである。また馬場ツルは貴美子を呼んでから半狂乱のようになつて内玄関よりはだしで外に飛び出して内田乾爾に出会い、手をバタバタさせ乍ら「早う医者を呼んでくれ」とか、「公代がのどを突いて死による」等と言いまくつて、一寸して内玄関より屋内に入り被告人が六畳の居室中央辺りに公代を抱いて坐つている姿を見て事務室に行き、受話器を外して「西郷さん、西郷さん」と呼んでいる時、被告人が焦燥と心痛の面持で公代を抱き乍ら貴美子の部屋に来て「西郷病院の電話はサの字の所を見なさい」と言つたが、その時公代の着衣に多量の血が附着し左首には血が流れ、顔面は蒼白で表情の動きはなく、目は白眼だけ大きく見開いて口は閉まらず中位に開き力が抜けた恰好でだらりとして失神状態であつたのである。

更にまた、原審証人岡本秀文(第八回公判)、同小川糺(第一二回公判)の各証言によれば、岡本秀文は五月一二日夜外出して九時過自宅附近に来た際宮川貴美子に出会い公代の異変を聞いて、二人で小川医院(岡本方より約一五〇米の距離)に走つて行つて来診を求めた上、すぐ一人で被告人方に赴き六畳の居室に入つた際、被告人が一人坐つて公代を抱いており、公代の首より胸附近にかけて血が一杯ついていて咽喉に三、四個の傷があるのを認めたが、それから暫くして午後一〇時一〇分頃小川医師が来診した時、公代は畳の上に寝せられ、その枕許に被告人が一人坐つており、公代は頸部に六個の傷があつて既に死亡していることが医師より確認された事実が認められる。

そこで、若し仮りに被告人が自ら手を下して公代の頸部を突き刺しこれを殺害したものとすれば、それは被告人が六畳の居室において公代と二人だけになり他には誰も居なかつた間に行われたものと断ずるより外にはないから、その機会は、第一・被告人が馬場ツルの悲鳴を聞き茶の間の洋服箪笥の前より六畳の居室に這入つた直後宮川貴美子が同室の入口に来る直前までの間か、或は、第二・馬場ツルが半狂乱となつて内玄関より外に飛び出し貴美子も医者を呼びに走り去つた後、馬場ツルが内玄関より這入つて来て事務室で西郷病院に電話する迄の間か、はたまた、第三・馬場ツルが右電話を掛けた後岡本秀文が小川病院より被告人方にかけつけて六畳の居室に来るまでの間かの三つの場合以外にはあり得ないものと考えられるのである。

ところが、前叙のとおり被告人はツルの悲鳴を聞いて六畳の居室に入り傷ついた公代を抱いて一刻も早く医師の手当を求めんものと医師を迎えに貴美子を走らせ、ツルが外より屋内に帰つて来た際も公代を抱いて坐つており、更に自分のシヤツは鮮血に染まつて焦燥と心痛の面持で瀕死の状態にある公代を抱き乍ら貴美子の部屋まで来て、ツルに対し西郷病院の電話番号を教えるなどして医師の来るのを待ちわびていたのであるから、かかる心境に在つた被告人がその後一瞬にして激怒し、自己の腕に抱きかかえ鮮血に染み死に瀕した公代の頸部を更に突き刺して殺害するとは到底考えられない。のみならず、さきに認定したとおり、馬場ツルが事務室において西郷病院に電話している際被告人は白シヤツを着て貴美子の部屋で公代を抱いていたが、被告人の左胸附近は広く真赤に鮮血に染まり右胸の純白と対蹠的の光景を呈し、公代の着衣も多量の血が附着し頸部左側には血が流れて、公代は顔面蒼白、表情の動きはなく、目は白眼だけが大きくうつろに見開いて口は閉まらず、全身力が抜けた恰好であつたのであるから、右状況を目撃した内田乾爾は傷口には気づかなかつたと証言しているけれども、かかる出血の程度、状況、公代の表情に鑑み且つ原審鑑定人中館久平、同三上芳雄作成の各鑑定書に徴すれば、この時既に公代の前頸部には六個の刺創が存在し、公代は死の様相を呈していたものと断ぜざるを得ない。従つて第三の機会における殺害行為はこれを肯認するに由ないものといわねばならない。

それでは、公代の頸部にある多数の刺創は第二の機会、すなわち馬場ツルが半狂乱となつて内玄関より外に飛び出し、貴美子も医者を迎えに走り去つた後、ツルが西郷病院に電話をかけて這入つて来るまでの間において被告人がこれを与えたものであろうか。原判決はこれを肯定しているものの如くである。

そこで先ず、その間における時間の点を考察するに、前叙のとおり内田乾爾が外出して被告人方附近に来ると被告人方に悲鳴を聞いたので吃驚して走り勝手口まで来た時、馬場ツルがはだしになつて半狂乱の態で飛び出して来るのに出会い、同女の「公代がのどを突いて死による」とか、「早うお医者さんを呼んで来てくれ」などとりとめもない言辞を聞いて驚ろき、自分の部屋に本を投げ込み物置に行つて自転車を出した時、事務室でツルが電話を掛けており、被告人が公代を抱いて貴美子の部屋に坐つているのを見た事実、馬場ツルは公代の頸の傷を見て驚き貴美子を呼んで内玄関から中庭に出て通用門を通り道路に出てうろうろしている時内田に会い、それから西郷病院に電話するため内玄関より屋内に入り六畳の居室の前を通つて事務室に行き電話した事実、宮川貴美子はツルが「姉さん」と言つて呼びに来たのですぐ部屋を出て六畳の居室入口近くに来た時ツルが内玄関より外に出て行く姿を認め、次いで右居室入口に来て被告人が公代を抱いている姿を見てすぐ医師を迎えに走り出た事実及び前掲内田乾爾の証言により認め得る如く内田がツルと出会つて別れるまでは約一分間であつたという事実に、原審並に当審における各検証調書により認められる被告人方建物の位置、構造、間取の状況等を参酌して考察すれば、貴美子が医師を迎えに走り出てからツルが外より屋内に這入つて事務室で電話するまでの時間は約五分乃至約一〇分であることが看取される。そして原審鑑定人中館久平作成の鑑定書によれば、公代の頸部に存する六個の創傷を他為的に生ぜしめるに要する時間は連続して行えば一〇秒内外であることが認められるから、時間の点のみより考察すればこの機会に六個の刺創を与え得る余猶が十分あることは勿論である。

しかし乍ら、先に認定した通り、被告人は公代を殴打叱責し「お前が出ないなら俺が出て行く」と言つて茶の間の洋服箪笥の前で洋服に触つていた折柄、六畳の居室に当つてツルの悲鳴と続いて「誰か来て下さい」という叫び声を聞き驚いて居室に入つた後、自ら咽喉を突き刺している公代を抱きかかえ、「姉さん、姉さん」と呼び、貴美子の姿を見るや「姉さん医者を医者を、田上さんを呼んで、田上さんを」と叫び、更に「小川さんでよい、小川さんでよい」と繰り返しているのである。被告人の周章狼狽したこの姿、叫び声は一時の憤怒に駆られて殴打叱責した自分の妻がこれが為に自ら凶器で咽喉を突き刺し自殺を企てている姿を見て、一瞬驚愕と悔悟と憐憫と看護の念が同時に爆発した赤裸々な人情の発露といわねばならない。

かかる境地に達していた被告人がその直後五分乃至一〇分の極めて短時間の間に、しかもその間心理的激変を齎らす客観的事情の変化もないのに忽ち憤激して自分が抱きかかえている瀕死の重傷を負つた公代の頸部を凶器を以て更に突き刺し殺害するとは、発狂の沙汰でない限り到底首肯し難いところである。

更にまた、原審証人岡本秀文、同小川糺、同内田乾爾の各証言、吉村覚、鶴池亀太郎の検察官に対する各供述調書によれば、被告人は当夜一〇時前最初にかけつけて被告人の側に来た友人の岡本秀文に対し、「公代に輸血してくれ」と何回も頼んでおり、次いで一〇時一〇分頃小川医師が来診するや、公代は既に死んでいると認められたに拘らず、頻りに脈を当つては同医師に対し「まだ脈があるから輸血してくれ」とか「リンゲルを注射してくれ」と迫つて応急手当を哀願し、更に加藤医師が来診して「公代は脈がないからもう駄目である」と言つても、被告人は「まだ脈があるようだから輸血してくれ」と頼み、或は泣き出しそうな表情で公代の頭を左右に動かして元気づけの方法を講じたり、公代の瞼を指で開けたり閉じたりして「どうして死んだのだ」と独言を言つていた事実が認められ、被告人のかかる態度は公代の突然の死を歎き悲み、なんとかして公代の一命をとりとめんとする心情に溢れている姿といわねばならない。そうだとすれば、若し仮りに被告人がこの機会に公代を殺害したものとするならば、被告人は午後九時過より午後一〇時一〇分頃までの一時間足らずの極めて短時間内において、先ず公代の自殺行為に驚愕して一刻も早く医師の手当を受けてその一命を救わんものと周章狼狽し且つは悔悟と憐憫の情に駆り立てられ、息も絶え絶えに傷ついた公代を抱きかかえて大騒動を演じ乍ら、瞬時にして憤激し凶器を以て公代の頸部を突き刺して殺害した後、更に転じて公代の死を悲しみ頻りに医師の手当を求めて一命を助けんものと焦慮し、かくて被告人の心情は公代に対する憐憫と憎悪、人命の救助と剥奪の両極端に三転したことに帰するが、かくも極めて短時間内に、かくも目ぐるましい心理的激変が、何時その変化を齎すべき事情もないのに生じ得るとは到底首肯し難いところである。

のみならず、さきに認定したとおり宮川貴美子が馬場ツルの悲鳴と呼び声に驚き六畳の居室入口に来て被告人が抱いている公代の顔を見た時、公代は口の周りに血がついて両眼を物凄くうつろに見開き、瞼も眼球も動かず意識を失つていたのであるから、貴美子は頸の傷は気づかなかつたと証言しているけれども、この時は既に公代は頸部に致命傷を受けて死の寸前にあつたものと断ずるのが相当である。従つて、被告人の当時の言動よりしても、はたまた公代の様相よりしても第二の機会における被告人の殺害行為はこれを否定せざるを得ない。

それでは、第一の機会すなわち被告人が馬場ツルの悲鳴を聞いて六畳の居室に入り次いで宮川貴美子が居室入口に来るまでの間において、被告人が公代を殺害したものであろうか。

先ずその間の時間の点を検討するに、さきに認定したとおり馬場ツルは六畳の居室で悲鳴を発し続いて「誰か来て下さい」と叫び「姉さん」と言つて貴美子を呼びに来たが、被告人はツルの右叫び声に驚き洋服箪笥の前を離れ、貴美子を呼びに来ているツルと茶の間ですれ違つて六畳の居室に行き、また貴美子はツルの呼びに来た姿を見てすぐ立ち上り自分の部屋を出て台所の前辺りを通る時被告人が「姉さん、姉さん」と呼ぶ声を聞き、次いで入口から六畳の居室を覗くと被告人が公代を抱きかかえていた事実に、原審並びに当審における各検証調書を参酌し且つ六畳居室入口より貴美子の部屋の入口までは約三米に過ぎないことを考慮に入れれば、被告人が六畳の居室に入つてより貴美子がその入口に来るまでの時間は僅か五、六秒を出でないことが看取される。ところが、前叙のとおり公代の頸部に六個の刺創をつけるには連続して行えば一〇秒内外を要し、その中二個を公代が自ら加えたものとしても残り四個の傷を与えるには六、七秒を要することになる。これは傷を加えるだけに要する時間であるから凶器を取つて刺し始めるまでの時間、更には公代の身体を動かす時間を加算すれば所要時間は更に延長する訳であつて、到底前記五、六秒の極めて短時間内に公代の頸部に四個の刺創を与え得ないことが窺われる。

のみならず、被告人が一時の憤怒に駆られて妻の公代を激しく殴打叱責したため、公代において悲歎にくれその直後凶器を以て咽喉を突き刺し自殺を企てている悲壮な姿を発見した場合、被告人が著しい性格異常者でない限りさきの怒は一挙に霧散し只管公代の早まつた自殺行為に驚ろき慌て一刻も早く医師の手当を求めてその一命を救わんと焦慮し且つ憐憫の情と悔悟の念にかられることはすなわち自然の人情というべく、右自殺行為を見て却つて激昂し咽喉を突いて瀕死の重傷に苦悶しまたは失神している公代の咽喉を更に突き刺して殺害する如きは、著るしく経験則に反し到底首肯し得ないところである。

そこで被告人の経歴、性格を検討する。

被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書によれば、被告人は熊本市春竹小学校三年生の頃実母ハルに死別し、間もなく実父悦次が馴染を重ねていた厳しい性格の年若い芸者紀子を後妻として迎えたため、冷たい家庭生活にあきたらず九州学院中学三年の時家出して会社に勤め、昭和二一年実家に舞い戻つて再び同校に入学し、卒業後昭和二四年鹿児島経済専門学校に入学して在学中椛山節子と恋仲とになり、同年七月結婚して熊本に帰つて来たが、被告人が何かにつけ節子を殴打叱責し剰さえ竹中安子と情交関係を結ぶにいたつたため、節子は昭和二七年一月二一日家出して同年二月一三日宮川家の墓前でアドルム自殺を遂げ、次いで被告人は馬場ツルの娘公代と知り合い同年四月二六日同女と結婚した事実が認められる。そして、被告人の原審第三一回公判における供述によれば、被告人は我儘で短気であつて感情の赴くままに言動し、先妻節子や後妻公代を殴打叱責し、妻をいたわることを知らないで自己本位の生活を続けて来たと述懐している。また節子の実父樺山資定の検察官に対する第一回供述調書及び同人の原審証言によれば、被告人は短気でよく節子を殴つていたが、その後では心配し涙を流して謝る性格であり、或る時は節子を叩いて顔がはれたため心配してすぐ氷で冷やし林檎を買つて食べさせたりして介抱に専念した事実が認められる。更に、舛田トミ子及び竹中安子の検察官に対する各供述調書によれば、被告人は東京に家出していた節子が帰熊して被告人との面接を拒絶されたのを悲しみ、宮川家の墓前でアドルム自殺を企て日赤病院に運ばれたことを知るや、今まで節子の家出に強い反感を抱いていたにも抱らず、直ちに病院にかけつけて助かる方法はないものかと医師に各種の手当を哀願し、節子が死亡するやこれを痛歎して自己の非を後悔していた事実が認められ、なおまた、原審証人馬場ツル、同宮川貴美子、同内田乾爾の各証言によれば、被告人は人一倍神経質ですぐ立腹して妻の公代や実妹陽子をひどく殴打することがあつたが、その後すぐ心配する気性で、殊に昭和二八年五月初め被告人は公代の顔がはれ上り鼻血が出る程ひどく殴打したため、公代が家出して四、五日姿を隠した際は連日夜も眠らず食事もしない位に心配して公代の行方を探し廻り、公代が帰つて来ると非常に喜んで仲良くしていた事実が認められる。被告人のかかる経歴、素行、性格等に鑑みれば、被告人の経歴、素行には非難すべきものがあり、短気で我儘で神経質であつて妻に対して常に暴力を振つたが、さりとてそのため妻が傷つき或は家出等をした場合には、人一倍心配し後悔して手当に専念する性格であることが認められ、特に性格異常者と認めねばならぬものではない。被告人のかかる性格に徴すれば、被告人が一時の憤怒に駆られて殴打叱責した妻の公代が悲歎に堪えかね自ら咽喉を突いて自殺を企てている悽惨且つ悲壮な姿を目のあたりに見て、激昂の余り凶器を以て更にその頸部を突き刺して殺害するが如きは到底首肯し得ないところであり、却つて、宮川貴美子が証言する如く、息も絶えなんとする重傷の公代を抱きかかえて「姉さん、姉さん」と貴美子を呼び、同女が姿を現わすや「姉さん医者を医者を、田上さんを呼んで、田上さんを」と叫び更に「小川さんでよい、小川さんでよい」と繰り返して、一刻も早く医師の手当を求めんと周章狼狽し且つ医師が来診するや望みもないのに応急手当を哀願して公代の自殺を痛歎していた姿こそ、被告人の性格を赤裸々に露呈した光景であつたといわねばならない。

さすれば、第一の機会における被告人の殺害行為もこれを肯定し得ないものである。

更になお留意すべきは、叙上認定によつて明らかな如く被告人は最初馬場ツルの悲鳴を聞き午後九時過頃六畳の居室に入つて傷ついた公代を抱きかかえて以来午後一〇時前岡本秀文が、次いで午後一〇時一〇分頃小川医師続いて後村巡査部長がかけつけた際は勿論、その後においても終始一貫して公代の介抱に専念し自殺を悲しむ態度を示している。若し仮りに、被告人において一時の憤激に駆られ咄嗟に公代を殺害したものとすれば、そしてまた、前示態度が真意でなく単に外観を仮装したものとすれば、果して自己の犯行をひたかくしに隠してかくの如き態度を装うことができるであろうか。

それも深謀遠慮の計画的犯行であるとか或は咄嗟の犯行であつても犯行後数時間又は一日と長時間経過後初めて発覚した場合においては、その間自己の犯行隠蔽の方法を画策して自己の犯行に非ざる如く振舞うことはさほど困難なことでないかもしれない。けれども、本件は被告人の犯行とすれば一時の憤怒に駆られた咄嗟の犯行であつて犯行後数秒(第一の機会)又は一〇分(第二の機会)或は二〇分(第三の機会)の極めて短時間内に、しかも被告人が只一人室内で鮮血にまみれた被害者を抱きかかえている姿を発見されたことになるから、その寸前の自己の凶行を顔色や言動に微塵も現さわずに却つて医師の手当を求めて焦慮しその死を痛歎するが如く装う芸当を演ずることは、前科は勿論警察の取調を受けたこともなく自己の感情を直ちに言動に現わす性格の被告人がこれをよくし得るものとは到底首肯し難いところである。

そこで被告人の弁解を検討するに、被告人の検察官に対する昭和二八年六月七日附供述調書によれば次の通り述べている。

『五月一二日の夜私は公代がアドルム四箱を持つているのを知り、私の寝室で公代に対し「何の不服があつてこんな薬を買つたのか」と詰問し、公代は只「済みません」と繰り返していた。それから私は公代の態度に腹が立ち公代の顔を拳骨で二回程殴りつけ、更に両手で公代の横顔を交互に二回宛力一杯殴りつけ続いてたばこケースを投げつけた。私は益々癪に障り「そんな風なら黒髪に帰れ」「嫌ならアドルムを飲め」と言つてそれを公代に投げつけた。それから私は公代に「出掛けるから京子を起して仕度してやれ」と言つて茶の間の洋服箪笥の側に行きネクタイに手を触れている時、母(馬場ツル)が私の後を追う様にして私の側に来て立つた。そして母はすぐ「とつても後悔しておりますから勘弁してやつて下さい」と二回程繰り返し、更に「今夜はどうか出ないで下さい」と言つた。それに対し私は反撥の言葉でなく短く返事したと思う。母は私の言葉を聞くとすぐ私が居た茶の間から出て行つたが、母が私の側に居た時間は一分間以内であつてもそれ以上ではなかつたと思う。母が引き返して行つた後も私はネクタイの選択に迷つてその場に立つていた。母が引き返して行つてからものの七、八秒もたつたかと思つた時寝室の方で「アー、アー」という様な呻き声が二、三回途切れて四秒余り続いた。私は何事かと思つたが別に寝室まで行つてその声を確かめる気持も湧かなかつたので、洋服箪笥の扉を片手に握つたまま上体を捻つて見たが何も見えなかつた。ところが、呻き声がやんで二秒余もたつたかと思つたとたん「誰か来て下さい」という声がした。同時に足で板の間を乱調子に踏む様な音が聞えた。それで私は足早に寝室の入口まで歩いて行つた。私が立つていた所から寝室の入口まではほんの五、六歩程度である。私が寝室の入口まで行つた時母はそこで両手を打ち振り両脚で板の間を乱調子に踏み乍ら何か訳のわからぬことをわめいていた。それで私は母の体を押しのける様にして一歩寝室の中に入ると、箪笥の正面右前附近に公代が体を箪笥にくつつける様にして頭が先、足が手前で俯伏になつていた。それで私は公代がその様な姿勢で泣いていると思い、公代の左横に歩み寄り中屈みした様な姿勢で私の右手を公代の左肩にかけて引き起そうとした。ところが、その持ち上つた肩の隙間から肩の斜内下の畳の上にチラット血を見た。それで吃驚して公代の上体を引き起すと同時にその上体を私の右腕と右胸にもたせかけた。その時公代の口からゴボツトという感じで相当量の血が畳の上に落下した。その時私は舌を噛んだのだと思つた。私の右腕と右胸にもたれかかつた公代はがつくり頭を前に落していた。私は公代を抱きかかえる様にして「公代わかるか、しつかりせい」と言つている時、母は最初私が見た時の状態で訳の判らぬことを言い乍ら手脚をバタバタやつていた。それで私は母に対し「しつかりして下さい。すぐ医者を呼んで下さい」と言つた。すると母は突然「お姉さん」と呼んだので私も続けて「姉さん」と呼んだ。そして公代に「しつかりしろ」と言つている時姉が入口まで来て私と公代の姿を覗き込む様に見た。私は姉の姿を見るとすぐ「姉さん、医者を呼んで」と言つたが、その時母は内玄関の方から外に出た様に思つた。それから姉はすぐ事務室の方に走り去つた。姉が去つた後「公代しつかりしろ」と言つて公代の体をゆさぶつたところ、前に垂れていた頭ががつくり後になつてその時公代の前頸部に三ヶ所の突き傷があることを発見した。その時公代の見開いた眼球が動かないことにも気がついたが、これは気絶していると思つた。それから内田が居る夜警小屋に通ずるベルが入口扉の横の柱につけてあつたので私は坐つたままそのベルを押した。一〇秒位押し終つた時事務室で「西郷さんを呼んで下さい」という悲鳴に近い声が聞えたので、公代を抱いたまま姉の部屋に行きくぐり戸の処から姉に(電話しているのを姉と思つた)「内田君に小川先生の所に走つて行つて貰え」と怒鳴つた。そして又元の寝室に引き返して公代を抱いたまま入口の処に箪笥を背にして坐つた。』と。

そして被告人は昭和二八年五月一五日附の司法警察員に対する第一回供述調書以来、警察、検察庁の取調及び原審公判を通じ終始一貫して右と同趣旨の供述を繰り返しているのである。しかも被告人の右供述は馬場ツルが内玄関から外に出る前暫くの間六畳の居室入口に立つて両手を打ち振り足踏みし乍ら何か言つていたという点を除いては(公代の刺創の点は暫く措くとしても)、宮川貴美子の前掲証言並びにこれとその他の証言に基く従来縷述の認定事実と殆んど符節を合した如く吻合しており、被告人が公代を抱き起した時口から血を吐いたという供述も、貴美子が見た時箪笥の前に血痕があり公代は口の周りに血がついていたという証言によつて裏付けられ、また被告人が夜警小屋に通ずるベルを押したということも鑑定人牧角三郎作成の鑑定書によりベルの頭に血痕が附着しているとあることに徴し否み難いところである。これ等の点を考慮に入れ被告人の右供述を仔細に熟読翫味すれば、その供述中何処に虚構や欺瞞があるかを発見するに苦しむものである。

それでは、馬場ツルが最初公代の姿を見た時その前頸部に一個の傷を見たと証言するのは何故であろうか。

最初に被告人方にかけつけた岡本秀文は原審第八回公判において、私が六畳の居室に入つた時被告人は公代を抱いて坐つており、私が急いで側に寄り公代の首から胸附近に血が一杯ついていたので手で襟のところを引き下げて見ると咽喉に三、四ヶ所の傷があつた、勿論その傷は襟のところを引き下げて見て初めて判つたと証言し、公代を診察に来た医師小川糺は原審第一二回公判において、畳に仰臥させてあつた公代の前頸部には六個の刺創があつたが、その中三、四個は一見してすぐ判つたが他は近寄つて見て初めて判つたと証言し、また当夜届出によつて検視に来た司法警察員後村房夫は原審公判準備において、被告人方に行つてすぐ六畳の間に仰臥させてあつた公代の傷に気がつき中腰になつて傷を見たところ二つか三つ見えた様に記憶していると証言し、かように公代が咽喉を突いていることを予め知り乍ら咽喉を見た場合すら、六個の傷は直ちに全部が視野に入らないで二個又は三個或は四個だけに気づいたに過ぎないことが窺われる。殊に馬場ツルは前叙の如く性来慌て者である上に当夜被告人と公代の紛争の渦中にあつて著しく精神的に動揺を来していたものであるから、公代の前頸部にある刺創中最も目につき易い一個を見るや気も顛倒せん許りに驚き慌て他の刺創を見落したものでないかとの強い疑念を禁じ得ない。現に、ツルは公代と向い合つて立つている時被告人がツルの後方に来てもいないのに来ていたという如き見誤を犯していることは縷述のとおりである。更に、ツルは公代の前頸部に一個の傷を見た時ブラウスの襟に血が少しついていたと証言しているが、鑑定人牧角三郎作成の鑑定書によれば、当時公代が着ていたブラウスの左襟に二個、右襟に一個の切目があつて、左襟の切目二個は頸部左側の第三、第四刺創に相当し、右側の切目は頸部右側の第六刺創に相当して、頸部の左側二個の刺創と右側一個の刺創はいずれもブラウス襟の上から突き刺されていたことが認められるから、ツルがブラウス襟の血と見たのはすなわちブラウスの襟の上から刺された前記傷口の血をかく見誤つたものではないかと思われる。のみならず、原審鑑定人古畑種基、同中館久平、同世良完介、同牧角三郎、同三上芳雄作成の各鑑定書はいずれも公代の前頸部六個の刺創中、就中中央二個の刺創は公代が自ら加えたものと考え得ることに一致しているから、馬場ツルが最初公代を見た時には少くとも右二個の刺創を認むべきに拘らず一個だけに気づいたことは既にその見落しを証明するものといわねばならない。かく観じ来れば、馬場ツルが最初見た時公代の頸部にある刺創の数についての観察は著るしい誤を犯していることが看取され、この点に関するツルの証言は真実に符合するものとはいい難く、寧ろツルが目撃した傷以外にも当時既に公代の頸部に数個の刺創が存在していたものと断ぜざるを得ない。

そこで次に、公代の前頸部にある六個の刺創は公代が自ら全部これを加え得るかどうかについ判断する。

宮川公代の死体を自ら解剖した鑑定人世良完介作成の鑑定書は次の通りである。

『公代の前頸部における六個の刺創中前頸部正中における其一、其二刺創は最も出血量少く、血液浸潤が軽度なることにより最初の受傷と認めらる。前頸部左側における其三、其四刺創は創面著明な出血、血液浸潤を呈し且つ左胸腔内に暗赤色軟凝血塊を伴つた血液約五〇〇竓を潴留し、これ等刺創により刺傷された頸部大動静脈の断端より血液迸出逸失し、其三、其四刺創は相前後して受傷し本屍直接の死因を惹起したものであることは疑ない。前頸部右側における其五刺創は右総頸静脈を刺傷し穿通しておるに拘らず、その周囲軟組織間における血液浸潤極めて乏しく明らかに其三、其四刺創の受傷後恐らくは失血瀕死の状態にあつた時の受傷と認むべきものにして、其六刺創と相前後して受傷したものと認められる。従つて頸部における六個の刺創の受傷順位は、先ず其一、其二刺創、次いで其三、其四刺創、最後に其五、其六刺創の順位と推定される。

次に、右六個の刺創に就て各自他傷の別を観察するに、前頸部正中其一、其二刺創は創洞共に前者は後方に深さ二・六糎、後者は後下左方に深さ約三・一糎を算し、其の部位方向及び深さより恐らく自傷と推定される。前頸部左側其三、其四刺創は共に頸部大血管を刺傷し極めて重大なる致命傷にして、創洞前者は後稍右下方に深さ約五・三糎左胸腔内に穿通し其後壁第二肋骨の脊椎附着部に刺入し、後者は後稍左下方に深さ約七・四糎左胸腔内に穿通其後壁第三肋骨に刺入し共に強力を以て刺入したことにより、その部位方向及深さにより他為的の刺創と認めねばならないものにして、仮りに其三、其四刺創の内孰れかの一刺創を其刃器柄部を何物かに支えさせて強力に突き刺し得たと仮定すれば、忽ち当然惹起すべき膨大繞多な迸血により脱力し昏倒し再び更に同程度の次の一刺創を自ら強力を以て営為し受傷し得るものとは断じて認められない。次に前頸部右側の其五、其六刺創は其受傷時期が遅いこと、大出血、血液浸潤を欠如すること即ち失血瀕死時の受傷と認められることにより恐らく他為的の刺創と認められる。本屍の死因は前頸部左側の其三、其四の刺創に基く失血にして他殺と認められる。』と。

また、原審鑑定人古畑種基作成の鑑定書は次のとおりである。

『公代の前頸部の六個の刺創の形成順序は世良鑑定と類似の理由により最初に正中の其一、其二刺創ができ、次に左側の其三、其四刺創を生じ、最後に右側の其五、其六刺創が生じたものにして、右受傷の順序の観点からすれば、正中の其一、其二刺創は被傷者自身でもできる。この部位は女性が自傷する場合に最も好んで傷つけるところである。然し乍ら左側の其三、其四刺創は左側総頸静脈、左側鎖骨下動静脈を傷つけ且つその創洞の先端は左胸腔後壁の第二肋骨の脊椎降着部第三肋骨の脊椎附着部の左後方約二、七糎の処に刺入しているのであるから、到底被傷者自身でできるとは考えられない。これは明らかに他為によるものである。左側の刺創が自傷でなく他傷とすれば、それに次いで起つた右側の第五、第六刺創が他為によるものであることは当然である。』と。

これに対し、原審鑑定人中館久平作成の鑑定書は次のとおりである。

『公代の頸部にある六個の刺創の形成順序は最初第一、第二刺創、次に第三、第四刺創、最後に第五、第六刺創の順であり、六個の刺創が生前本人が自為的に形成することができるかどうかについては、(1)創傷はいずれも前頸部露出部に集中している。これは自傷における顕著な特徴である。他傷においては創傷は散在し特に被害者が抵抗し身体を著しく動揺した場合には甚だしく散在する。(2)自傷の創口の長さは成傷器の刃巾に全く等しいことが多い。(3)自傷の創洞の方向は概して直線状を呈しているものが多い。(4)創口の方向はいずれも上左方から下右方に向い、創洞の方向はいずれも前右上方から後左方に向い六個の創傷の創口及び創洞の方向は殆んど等しく、同一人が同一刃器を同一の把持方法を以て刺突したものと考えるのが合理的である。(5)本鑑定人が被害者と略体格の等しい婦人教室員をして実際に人死体を刺突せしめた実験成績によると、同一ナイフを以て前頸部から脊柱又は胸腔後壁の肋骨に達するまで刺入することは極めて容易である。そして公代の頸部に存する六個の刺傷を生ぜしめるには最短一〇秒以上一五秒内外を要するものと推測される。(9)公代の頸部に存する六個の刺創の中第三、第四刺創はいずれも致命傷となり得るものであるが、自傷者において総頸動脈が二度に亘つて切断している事例もあるので自為傷としても不可能ではない。又鎖骨下動脈切断後公代の左胸腔内に見られた五〇〇竓の出血を来すのには、心臓の搏出量またはこの動脈の血流速度から概算すると決して瞬間的に即死するものではなく、少くとも三〇秒内外は諸動作が可能であつて自ら二度この動脈を切断することは不可能ではない。(10)公代の頸部の創傷中第五のものは右内頸静脈を穿刺しているに拘らず出血が甚だ軽微ではあるが、これは死亡の比較的直前に生ぜしめられたものであることの外、元来このような大きな静脈の内圧は零または陰圧であつて、もし全断されれば当然末梢部から流れて来た血液が溢出するが、この場合のように僅か長さ〇・二及び〇・四糎の縦の方向に走る[口多]開しない裂隙を生じたに過ぎない程度の場合には出血が甚だ微量であることは充分考えられる。従つてこれを以て死後又は瀕死の状態において他為的に生ぜしめられたことの根拠とするのは稍困難である。かようなわけで、六個の創傷は生前公代が自為的に生ぜしめ得る可能性が大であると考えられる。』と。

また、鑑定人牧角三郎作成の鑑定書は次のとおりである。

『正中の二個の刺創はその部位形状等より自為傷ではないかと考える。左側の二個の刺創は共に頸部大血管を刺傷し、いずれも致命傷と思われるが他為の場合は勿論自為の場合でも力をこめて刺入することはあり得るから、その部位、方向、深さから言えば自他傷の何れでもあり得ると考えられる。但し左側二個の刺創のうち一個は自ら形成し得たと仮定した場合、更に他の一創を自為的に形成することは一般常識から考えると不可能のように考えられる。また仮に、左側二個の刺創を自ら形成し得たと仮定しても更に右側二個の刺創を自ら形成することは尚更不可能と考えるのが普通と思われる。然し、頸部大血管を離断した後即座に死ぬことなく自ら行動し得る様なことが極めて稀なことであつても実際に存在するものであるならば、本件の場合でも左側右側の刺創を自ら形成することは不可能であると断定しかねるのである。文献によれば、(1)妻が自殺を企て階下においてかみそりで自ら頸部を切り左右数本の頸部血管を離断した後、独力で階段を上つて二階の寝室まで歩いて来て死んでいた自殺の事例、(2)女子が左側内頸静脈を全断し左側総頸静脈を殆んど完全に離断された後、約一六ヤード走りそれから倒れて二分後に死んだ他殺の事例、(3)女子が総頸動脈、外頸動脈、頸静脈を全断された後、約二三ヤード走り門をよぢ昇つている他殺の事例があり、又(4)本鑑定人の経験例によれば、病弱な老人が仏壇の前で枕に頸をのせ自らかみそりで頸部左側動静脈を離断した後流れる血をタオルで抑え、死亡直前になつて起き上り部屋を歩き回つて土間に行き死んでいた自殺の事例があるから、本件の場合も左側の其三、其四創、右側の其五、其六創を自為的に形成することはいずれかと言えば極めて稀なことではあるが、全然不可能とは云われぬと思う。』と。

更に、原審鑑定人三上芳雄作成の鑑定書は次のとおりである。

『宮川公代の前頸部の六個の刺創はその性状、部位、創傷口における生活反応の状態等から、初は前頸部中央群(其一、其二刺創)、次いで左側群(其三、其四刺創)、最後に右側群(其五、其六刺創)の順序を以て形成されたと考えるのが妥当である。次に右六個の刺創中其一、其二刺創は略上下に並列状の略上下の刺創にして創洞は比較的浅く、其一刺創は後方に、其二刺創は後下左方に向い気管及び食道を穿通するのみにして大血管の損傷はなくその部位、方向、深さ等によれば自為的に形成することは可能と考える。其三、其四刺創は略上下に並列状の略上下の刺創にして創洞は稍深く其三刺創は後稍右下方に向い左内頸静脈並びに鎖骨下動静脈を截断して左胸腔内に入り後壁第二肋骨の脊椎附着部に刺入し、其四刺創は後稍左下方に向い左鎖骨下動脈を截断して左胸腔内に入り後壁第三肋骨の脊椎附着部に刺入するから、孰れも重大な損傷であるが、刺創の性状並びに凶器の大きさ、重量、鋭利度等よりすれば、其三、其四刺創は自為的に不可能とは考えられない。其五、其六刺創は上下した略上下の略同一性状の刺創にして創洞は比較的浅く其五刺創は後稍左下方に、其六刺創は後稍下左方に向い其五刺創において右内頸静脈に僅かに穿通創を存するのみであるから、其の部位、方向、深さ等によれば自為的に形成することは可能と考えられる。然れども世良鑑定書によれば其五、其六刺創は失血瀕死時の受傷と認められているから、この点からすれば右側群或は更に中央群並びに左側群の刺創も自為的のものでないが如くにも考えられる。』と。

そして、原審証人、鑑定人三上芳雄は、六個の傷が連続的に形成されたとすれば、第五、第六の受傷当時果して世良鑑定人のいう如く生活反応がなかつたか否を断定することは誤ではないかと思われる。また、左側第三、第四刺創をつけた瞬間瀕死の状態になることはなく、死亡までには五、六分かかると思う。本件のように部位形状を同じくする傷を負うことは他傷でもできないことはないが、自傷に多いようである。私は六個の傷がすべて自為的にできると思うと供述している。

そこで前記各鑑定を仔細に検討するに、相反する二群の各鑑定はその結論こそ異にするが、何れも立派な科学的基盤に立脚した判断であつて合理性を有し、何れを正論とし何れを謬論であると速断し得ないのは勿論である。しかし、古畑、世良の両鑑定はその論理の運び方において理路整然としているけれども、他面すべての事象に対し一率に明確且つ截然と固定した結論に走り過ぎた嫌なしといい難い。人間が単なる物理的存在ではなく肉体と精神力に統合された綜合体であつて、体力に千種万態あると共に精神力も千差万別であるから、その行動能力において各人各様無限の差異と段階が存することは否み難く、従つて人間は時と場合如何によつては極めて稀有の事例として科学者の想像も及ばぬ行為に出ずることなきを保し難いのである。頸部左側大動静脈を全断すれば瞬間的多量の出血のため原則として失神し昏倒して爾後の行為能力を喪失するものと断定することが正しいとしても、右以外には何等肉体的損傷はないのであるから、出血の状況程度如何と本人の精神力、肉体力の如何によつては極めて稀な例外として瞬間的に失神しないで短時間なお行動し得る場合を容認しても、これを以て直ちに非科学的、非合理的であるとして一蹴し去ることは過ぎたるものありといわねばならない。また、本件刃器が両刃型の極めて鋭利なしかも重量味ある登山用ナイフであることに鑑み、更に前敍の如く人の行動能力に無限の差異と段階が存することを考慮すれば、左側の第三、第四刺創が非常に深く重大であることを捉えて直ちにこれを自ら形成し得ないとなすことは形式論理に偏した感なきを得ない。さすれば、公代の頸部左側(其三、其四)及び右側(其五、其六)の四個の刺創は自為的に不可能であると一概に断定する古畑、世良の両鑑定に左袒することは躊躇せざるを得ないのである。これに反して、中館、牧角、三上の各鑑定は、これに原審証人、鑑定人中館久平、同三上芳雄、当審証人、鑑定人中館久平の各供述を参酌すれば、前記両鑑定に比して一層の合理性と妥当性を有し、殊に前記説示にかかる中館鑑定が指摘している前記(1)、(4)、(9)、(10)の理由及び牧角鑑定が実例四に立脚して引き出した結論は首肯するに値するものであつて、当裁判所はこれ等の鑑定を採用するのが相当であると考える。

従つて、敍上縷述の各事実に中館、牧角、三上の各鑑定を併せ考察すれば、宮川公代の前頸部に存在した六個の刺創はすべて公代自らこれを生成せしめたものと断ぜざるを得ない。

そこで、公代が自ら六個の刺創を形成する時間的余裕があつたかどうかを検討する。

原審並びに当審における各検証調書、前掲証人馬場ツル、同宮川貴美子の各証言、被告人の検察官に対する昭和二八年六月七日附供述調書によれば、馬場ツルが六畳の居室を出て茶の間の洋服箪笥の前に居た被告人の側に行き元の居室に引き返すまでの時間は、僅かに一分乃至二分に過ぎないことが認められる。そして、原審鑑定人中館久平作成の鑑定書及び当審証人鑑定人中館久平の供述によれば、公代の頸部六個の刺創は自為的に連続して行えば最短一〇秒乃至一五秒内外、最長二〇秒乃至五〇秒内外を要することが認められるから、公代はツルが被告人の後を追つて居室を出るや直ちに傍の箪笥上段開戸を開いて同開戸内にあつた本件登山用ナイフを取り出し、躊躇逡巡することなく一気に連続してその前頸部に突き刺し以て第一、第二、第三、第四、第五、第六の刺創を順次生ぜしめたものと断ぜざるを得ない。

次に若しそうだとすれば、登山用ナイフを握つていた公代の手は迸出する鮮血に染り、またツルが公代を見た時は少くとも鎖部一帯に血が溢れておるべきものの如くである。

ところが、最初公代を診察した医師小川糺は検察官に対する供述調書において、公代の手指に血は余りついていないようであつたと供述し、次に来診した医師加藤重信は検察官に対する供述調書において、公代の手は色の白い手であつたが手には血はついていなかつたように思うと供述し、また被告人は検察官に対する昭和二八年六月一〇日附供述調書において、公代の手先は余り血に汚れてはいなかつた、唯左手であつたと思うが一通り拭いてやる時指二本位には爪の生へ際の両端附近に僅かに血がこびりついていたのを自分の人差指にタオルを当てて拭き取つてやつたことを記憶していると供述しており、当時公代の手指に余り血がついていなかつたことが認められ、また馬場ツルは原審第六回公判において、入口の畳の上に一銭銅貨大の血三滴を認め鼻血と思つて公代を見たが鼻の下辺りに血がついていなかつたので、何処から血が出たかと思い辺りをよく見廻していたら、咽喉に傷が一個ありプラウスの襟にも血がついていたと証言し、ツルが最初目撃した公代の身辺における血は極めて少量の如くである。

しかし、原審証人、鑑定人三上芳雄、同中館久平、当審証人、鑑定人中館久平の各供述によれば、公代の前頸部中央群の第一、第二刺創、右側群の第五、第六刺創は傷の部位程度よりして出血が比較的少なく、左側群の第三、第四刺創は鎖骨下動静脈を截断している重傷であるため出血は相当あるが、静脈を截つた場合には血は外部に飛散せず、また鎖骨下動脈は血圧が弱いためと創が深いため血は外部に余り飛散しないで相当量が胸腔内に溜るものであり、又動脈を截つた最初の瞬間は血が飛散してもすぐ血圧が下つて飛ばなくなり、更に動脈が全断されると血管が収縮し却つて余り出血しないことが認められるから、本件においては頸部動静脈全断という重傷の割合に、立位姿当時の公代の出血は比較的少量であつたことが窺われる。かくして頸部動静脈を切断している第三、第四刺創はブラウスの襟の上より突き刺されたものであるから、傷口より出る血は最初の一瞬だけ迸出して飛散し、そしてこの飛血がすなわちツルが居室入口の畳の上に認めた三滴の血痕であり、また後述する如く箪笥の北側面や壁にかかつていたレインコート下部に附着した血の飛沫と認められるが、直ちに飛散しなくなると共にぶくぶくと出る血はブラウスの襟に遮ぎられ直接外面に現われずブラウス次いで下着を伝つて流下し外部に露出しなかつたことが窺われる。(当時公代は白色のブラウスに赤色のカーデガンを着ていた)。また当審証人、鑑定人中館久平の供述によれば、公代は登山用ナイフを逆手に握つて稍上方より突き刺したことが認められるから、手は刃器の上方にあつて血が流れ落ちて附着するとは考えられず、また血が飛散するのは最初の一瞬だけであるから飛散の方向如何によつては必ずしも刃器を握つた手に飛沫が附着するとは限らない。のみならず、被告人が供述する如く公代の指二本位に爪の生え際の両端附近に僅かにこびりついていた血は、その附着の部位状態よりして右飛沫の血痕なることが窺われる。更に馬場ツルの当時の状況観察に著しい誤があることは縷述のとおりであるから、公代の身辺における血の附着状態の観察も亦誤なきを保し難い。従つて、公代の手に余り血がついていなかつたことも、はたまたツルの見た公代の身辺に存した血が極めて少量であつたことも何等公代が自ら六個の刺創を形成した事実を否定する資料とはなし難い。

ところが更に不思議なことは、前掲証人馬場ツル、同宮川貴美子の各証言、被告人の検察官に対する各供述調書によれば、本件に使用された登山用ナイフは六畳の居室にある箪笥上段の開戸内より発見され、しかも何人もこれを同所に隠匿格納した者はいないと認められるから、宮川公代が使用直後自らこれを同所に格納したものと断ずるの外なく、それでは果して自己の頸部に六個の致命的重傷を与え死の寸前にある自殺者が自ら使用凶器を元の場所に納めることがあり得るであろうかということである。

鑑定人古畑種基、同世良完介の各鑑定書は勿論これを否定する。

しかし、原審鑑定人中館久平作成の鑑定書は、『公代が自ら六個の刺創を形成するには一〇秒以上一五秒内外で足り、又致命傷を生ぜしめた後にも少くとも三〇秒内外は諸動作が可能であつたものと考えられるから、その間自ら成傷器を箪笥上段の開戸内に格納することは時間的にも空間的にも可能であつたと考えられる。』と。

鑑定人牧角三郎作成の鑑定書は、『若し頸部に自為的に六個の刺創を形成したとすれば頸部動静脈刺傷のため出血甚だしく到底その後において成傷刃器を箪笥開戸内に格納することは一般的常識を以てしては考え難いことである。しかしさきに列記した参考実例のように極めて稀なことではあるが、階下において自ら頸部動静脈離断後階段を昇つて二階の寝台まで歩いたり、自ら頸部動静脈離断後タオルで出血を抑え死の直前部屋を歩き廻つたり、頸部総頸動静脈を全断された後一六ヤード走つたり或は二三ヤード走り門をよじ登つた実例があるから、本件の場合でも自傷後成傷器具を箪笥開戸内に格納することが不可能であるとはいわれない。』と。

原審鑑定人三上芳雄作成の鑑定書は、『前頸部六個の刺創は狭い前頸部に並列状に密集して存在し、その性状等よりすれば極く短時間において形成された刺創と認められる。そして左右総頸動脈には損傷を認めず例えば左鎖骨下動脈截断により失血するも両側頸動脈に損傷を存しないから、極く短時間における行動は可能なものと考えられる。さればこの理由から成傷後成傷の場所から二、三尺離れた箪笥の前に行きその上段開戸の奥に登山用ナイフを格納する程度のことは可能とも考えられる。』としている。

そしてさきに説明したと同一の理由により中館、牧角、三上の右各鑑定を採用するのが相当であり、更に原審証人鑑定人中館久平、同三上芳雄、当審証人、鑑定人中館久平の各供述を参酌すれば、極めて稀なことにして如何なる理由によるかは判らないけれども、公代が箪笥上段開戸内より本件登山用ナイフを取り出してその前頸部を一気に六回突き刺した後再び右ナイフを元の開戸内に格納したことは、これを否み得ないというべきである。

そして公代の頸部傷口より出る血の飛散は最初の一瞬だけであり、又その手に殆んど血が附着していなかつたことは前叙のとおりであるから、公代がナイフを格納する際箪笥前面に立ち或は手を箪笥に触れたとしても原審が懸念する如くそのため箪笥前面が血まみれとなるとは限らないものといわねばならない。

次に、司法警察員作成の昭和二八年五月一八日附実況見分調書、原審各検証調書、レインコートにについての鑑定書、原審証人大守進の証言によれば、箪笥の北側面の畳より〇・六二米辺りに多数の血の飛沫があり、又北側壁にかけてあつたレインコートの畳から〇・五五米に当る箇所にも多数の血の飛沫がついていたことが認められる点よりして、公代は坐位の姿勢において前頸部を突き刺したものと断ずるのが相当である。

そこで叙上認定の結果を綜合すると、宮川公代は六畳の居室において被告人より「なんの不服があつてこんな物を買つたか」、「俺の目の前で薬を飲んでみろ」、「飲まないなら黒髪に帰れ」と叱責された上、顔面を数回殴打されたばこケースを投げつけられたりなどしたため悲歎に堪えかね、被告人が「お前が出ないなら俺が出て行く」と言つて居室を出て茶の間の洋服箪笥の前に行き、続いて実母馬場ツルも被告人の後を追つて居室を出るや、直ちに同室西側に在つた箪笥上段開戸内より登山用ナイフを取り出し箪笥北側附近に坐つて右ナイフを逆手に握り一気に自己の前頸部を六回突き刺して後立ち上り、再びナイフを元の開戸内に格納して箪笥の北角附近に入口に向いて立つた際、馬場ツルが引き返して来てその姿を認め、公代の前頸部にある傷を見て驚き悲鳴を挙げて宮川貴美子を呼びに居室を出た時、公代は失神して俯伏に昏倒し、その直後被告人が来て公代の姿に驚き同女を抱きかかえて「姉さん、姉さん」と叫び、被告人の実姉貴美子が入口に来て見た時公代は両眼を大きくうつろに見開き眼球もすわつて既に死の様相を呈するに至つていたのである。すなわち、本件は公代が被告人の暴行叱責に堪えかねて自ら前頸部を六回突き刺して自殺したものであつて、被告人の公代に対する態度には徳義上非難すべき点が多々存するも、刑事上の責任はこれを肯定するに由ないものというべく、原審が挙示の証拠を以て第三乃至第六刺創は被告人がこれを加えて同女を殺害したものと断じたのは、畢竟証拠の価値判断を誤り判決に影響を及ぼすことの明らかな事実を誤認したものであつて、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

そこで、弁護人免出砿の控訴趣意及び弁護人石坂繁、同本田正敏連名の控訴趣意中各量刑不当の論旨に対する判断を省略して、刑事訴訟法第三九七条第一項に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い更に判決する。

当裁判所の認定した事実及び引用証拠は、原判示第二の一、二、三のそれと同一であるから、すべてこれを引用する。

法律に照らすに、被告人の判示各所為は刑法第二〇四条罰金等臨時措置法第二条第三条に当るが、いずれも懲役刑を選択すべく、そして第二の二の所為は心神耗弱中の犯行であるから刑法第三九条第二項第六八条第三号に則り法定の減軽をなし、右は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条第一〇条に従い犯情重い第二の一の傷害罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において被告人を懲役八月に処し、同法第二五条を適用して二年間右刑の執行を猶予すべきものとする。

なお、本件公訴事実中、被告人は昭和二八年五月一二日午後九時過頃熊本市水前寺町九一番地自宅六畳の居室において、妻公代(当時二〇才)が秘かに睡眠剤アドルム四箱を所持していたことに立腹して同人を殴打叱責の上、「自分の目の前で服んでみろ」、「服まないのなら黒髪に帰れ」等と申し向け、更に「お前が帰らぬなら自分が京子を連れてこの家を出て行くから子供を起して用意をさせろ」と言い捨て居室を立ち出たため、悲歎に堪えかねた同女が同室箪笥の中に在つた登山用ナイフを以て自己の頸部を突き刺し自殺を図つたところ、直後に居室に立ち帰つてこれを知つた被告人は公代の自棄的所為に憤激し、この機に同人を殺害しようと決意し前記ナイフを以て公代の前頸部を数回突き刺して殺害したものであるという点については、前掲説示のとおり犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三三六条に則り無罪の言渡をなすべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 藤井亮 中村荘十郎 横地正義)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例